(64-7960)
SR-71 Blackbird
軍用機を撮影し始めて40年をとうに過ぎているが、様々な軍用機の中で、はじめて目にして一番衝撃を受けた機体がこのSR-71Aであった。 巨大な黒い機体が轟音を上げて空を舞う姿に驚愕し一目で恋に落ちた。初めて沖縄へ行った1977年は、まだ感受性の強い10代後半であったからなおさらである。それ以降F-15、F-16、F-22を見てもF-117を見てもあの時ほどの感動はない。SR-71は、それだけ強烈な印象を与える特別な航空機だった。このSR-71Aという機体、地上展示で見るだけでは感動が無いが、飛んでいる姿・タキシングしている姿に醍醐味がある。SR-71Aの姿にすっかり魅了された私と友人は、嘉手納近くの中古米軍品卸ショップでSR-71のパッチの貼ってあったジャンバーを大枚叩いて購入し、さらにテンションを上げたのであった。(2017 記)
1960年代にすでにマッハ3と言う驚異的なスピードを実現したアメリカ航空産業界の底力を示す機体であるが、さらに驚くのは、この時期からレーダーに映りにくいステルス性能を追求した航空機だったことだ。現在のF-22の機体構造に似通った部分を持っており 尾翼にも傾斜が掛けられている。
(61-7975)
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嘉手納 ランウェイR/W23で 燃料を放出しながらローパスするSR-71A。SR-71の燃料は、JP-7と言う特殊な燃料で、沸点が288度と言う高温でも安定して使えるものを採用していた。その為 空中給油も専用のKC-135Qという機種で行っていた。
(61-7967)
1977年8月某日 嘉手納R/W05 left ,国道から見ていたら2機のSR-71Aが出てきた。周りを囲むスタッフの数も通常よりやたら多い。すっかり これは、本国との機体交換だなとその時は想像して喜んだ。
2機のSR-71Aは、左手が61-7967、右手が61-7960である。スタッフは機体の見送りの為か、敬礼の姿勢。写真を撮っている人も多い。やがて2機のSR-71Aは、幅の広いR/W05 Leftに進入し離陸して行った。しかし、その後2機共に嘉手納に戻って来た。機体交換ではない可能性もある。 
9th SOS傘下の1st SOSは、嘉手納基地派遣の為、3機のSR-71Aをローテーションで送っていたため 定期的に機体交換も行うのだが もしかしてこの時は、司令官クラスの人のラストフライトなど、何らかの基地内行事だったのかもしれない。
1978年3月嘉手納基地NAVYエプロン付近のゲートで海軍機を狙って待っていたらSR-71A(64-7960)が戻って来た。この後 支援車両が真横に付いて伴走するように格納庫に戻る。
"HABU"が着陸すると、どこで待機していたか判らないが、いつの間にかに支援車両が随伴して機体の動きに合わせて寄り添うように走る。写真の車両も乗員やメンテナンス要員の活動の為に、コックピットの高さに合わせた作業台を備えた支援車両であり、機体に被り撮影の邪魔になってしまうことが多かった。
Wings

西山邦夫先生著書の戦略航空偵察によると、この写真を撮影していた1977年8月頃は、RC-135によるソ連の戦略潜水艦基地があるペトロパブロフスクの電子偵察を手助けするため、ビール空軍基地のSR-71Aと共同で行動して、ソ連のレーダー情報収集任務も行っていたそうである。SSR-71Aの飛行パターンを特殊なものにしてソ連のレーダーサイトを刺激し、レーダーが作動するとRC-135がそれの電波情報を収集していたとの事。